麻痺からの脱却~日本二周目挑戦中!~

2010年に脳卒中で右半身麻痺に。でも、「絶対に諦めない」をモットーに現在は『日本2周目』に取り組んでいます。

12.東北一周の旅<その6:岩手県(陸中海岸編)>


10日目:8月16日(火)続き

いよいよ再び岩手県で、ある意味今回のメインとも言える三陸に入ります。
ここ三陸岩手県野田村は、云わば私の第2の故郷。大学生時代の夏休みには毎年、野田村にあったユースホステルで、ヘルパー程には仕事を手伝わない”居候”として、この地でほぼ夏休み中ずっと過ごしていたのです。会社に入って仙台にいた時期にも、数日間の休みがあればとにかく車を飛ばしてボケーっとしに来ていたので、野田村滞在は合計でざっくり6ヶ月程度にはなるでしょうか?

私的な野田村のハイライトは大学3年の時のこと。経営不振(つまり、それだけ宿泊者が来なかったということです。)でこの秋にはユースホステルを閉鎖するという村役場の方針に、存続を切に願う我々常連が何かしようという情熱に突き動かされて、「せめて、ささやかな抵抗として署名運動でもやってみよう!」と、閉館(このユースホステルは元々季節営業で、10月から翌年の4月まではクローズ)までの2ヶ月の間、必死になって署名をかき集めたのです。
そして最後の閉館パーティーになるかもしれないと全国からこのユースを愛する人たち30人弱が集まって大宴会をした翌日、集まった人たちの代表4人(タクシーに乗って役場まで行ける人員)が、村長に会って署名を手渡しに行きました。「署名の数を一番集めた。」という功績(実際は大学の後輩たちに酒を奢って協力を頼んだだけなのですが…)により私もその4人の中に入れていただき、学生の身分で生まれて初めての村長室に入ることができました。
野田村の人口に匹敵する3000名を越える署名に村長も圧倒されて、存続の検討を約束してくれた結果、翌年春には存続が決まり、再び開所を喜ぶ数十人が野田村に集結し、歓喜の雄叫びを挙げたのでした。
署名を持って行ってから半年の開、毎日吉報を心待ちにしていましたが、開館が決まった時には間違いなく「いままで生きてきた中で、一番幸せ!」な瞬間だった記憶があります。

ユースホステルはその後約10年存続し、最後は建物の老朽化によりその役割を終えたのですが、その時には少しだけ年を取った我々には、もう署名運動をする気力もなく、建物の老朽化という現実の前には、「署名運動をしても、今回ばかりはもう無理」という大人の諦めもありました。

そのユースホステルの雇われペアレント(宿主)だった人が、私が昨年春に滋賀県の琵琶湖のほとりまで会いに行き、10年以上振りに再会を果たした人。ところが今年の春、信じられないことにその人の訃報に接し、その魂はここ野田村に来ているに違いない…と考えたので、今回その初盆に会いに来たのです。

この日のお昼は、野田村で頑張っている南部曲がり屋の民宿”苫屋”。未だに電話のない民宿で、宿泊したい時は往復ハガキで申し込むという超レトロな民宿です。私も2008年にこの宿に泊まった時には、高校生時代以来超久し振りに往復ハガキで宿泊の申し込みをしました。今回、宿泊はしないものの8年振りにお昼を食べに行って、経営者ご夫妻にご挨拶して、最近メディア等にしばしば取り上げられるその盛況ぶりを確認しようと思っていました。田子町に立ち寄ったお陰で、苫屋到着は1時を大きく過ぎてしまいましたが、それでも民宿のテーブルにはまだ数組のランチ客がいて、メディアですっかり有名になったのは正しく事実のようです。あんな田舎の野田村の中心街から更に車を30分も走らせないとたどり着かない超僻地(誇張ではなく、事実!)なのに… です。
ご夫妻と昔話(といっても2008年のことですが)や野田村の観光についてしばし歓談し、改めて次回は宿泊に来ようと自分に誓いました。
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野田村近くの都会と言えば隣町の久慈。地方都市特有のシャッター商店街がありその行く末がやや心配になる町でしたが、数年前朝ドラ”あまちゃん”の舞台になったお陰で超有名になり、”じぇじぇじぇ”と驚くような勢いで超メジャーな観光地になった町です。
三陸鉄道久慈駅はマスコミには常に取り上げられていますが、隣にあるJRの久慈駅は悲しいくらいにスポットを浴びることはありません。多少リニューアルされているようですが、佇まいは35年前そのまんまです。
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(駅前の青い車はマイカーです)
勿論野田村に何ヵ月もいた私は、あまちゃんで有名になった久慈のスポットの大半はよく知っていましたが、わざわざ久慈まで戻って来た理由は、35年前によく買って帰ったお土産を久し振りに手にしてみたかったからです。
35年前からの久慈の定番土産といえば”ぶすのこぶ”。そのネーミングだけで話題がひとつできる、シャレで持って帰るには最適なお菓子ですが、命名の由来は当時の記憶では久慈渓流にある岩の名前なのだとか… 30年振りに久慈では有名なお菓子やさん沢菊の本店に行き、意外と(失礼!)美味しかった記憶の”ぶすこぶ”(我々の愛称)を今回もお土産にします。30年も経つのですからぶすこぶも進歩していて、オリジナル味の他にゴマ味も出来ていました!
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野田村に戻り、懐かしい場所を訪ねてみます。まずは野田村でも美しい砂浜を持つ十府ケ浦海岸。
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我々が”玉川銀座”と呼んでいた部落で2軒だけ商店があった場所も、今では一軒だけ残った酒屋さんがコンビニのような業態(といっても24時間営業ではない)になっています。我々はいつも夕方に、この酒屋さんでサッポロジャイアントを買い、隣のよろず屋で丸い栄養豆腐やイカをつまみに買って毎晩の酒宴に備えていました。
今は三陸鉄道の駅になった野田玉川駅。当時は1日に5本しか列車が来ない国鉄久慈線の駅でした。
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初めてこの駅に降りた時、車掌さんにユースホステルへの行き方を尋ねたところ、線路を指差して「ここを歩けば近いよ!」と国鉄職員にあるまじき貴重なアドバイスを貰ったことが、つい昨日のことのようです。35年前に何度も歩いた懐かしの線路です。
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三鉄になり、列車の数もかなり増えて、今では反対側にもうひとつホームができていて列車のすれ違いができる駅に進化しています。1日5本時代には夢のような、列車のすれ違いを見て何故だか感無量になりました。
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野田玉川駅周辺の観光地と言えば、西行屋敷跡。昔、今にも潰れそうなユースホステルも、いつかは「跡地になってこの駅名標西行屋敷と並んで載るかも!?」なんて自虐ネタをいつも言って笑っていました。不幸にもそのジョークは現実となってしまいましたが、勿論駅名標に”ユースホステル跡”が載る訳はありません。
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でも、無性に落書きしたくなりました!

ユースホステルの跡地は2008年に来た時と変わってはおらず、ただの空き地です。足が良ければズカズカと空き地に入り込んで、海が見える女子トイレがあったあたりに献花したいところですが、そこまで悪路を歩くことができないので、入り口に佇んでしばし思い出に浸りながらペアレントさんの霊と会話をしていました。
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本日の宿泊は野田村に昔からある国民宿舎。毎年、海の日近辺にユースホステルの残党が集まる時のベースになっている場所で、私も2010年にはここに来る予定にしていたのですが、その1ヶ月前に脳卒中になり、その頃は病院のベッドの上でした。なので35年以上前からその名前は知っていたものの、実際に宿泊するのは初めてでした。とはいえ、昨日呑んだ友人からも、「よく、(このお盆期間中に)予約が取れたね?」と驚かれたぐらい人気の宿になっているようです。この日は、小学校の昔は臨海学校と呼ばれていた今は修学旅行(?)が来ていました。
世田谷区で育った私の、小学校5年生の時の臨海学校は、三浦半島だったことを思い出していました。

11日目:8月17日(水)

自宅発から10日間、素晴らしい天気がずっと続いていましたが、今日は台風が近づいていて、初めての雨音で起こされた朝です。日本一周を始めた頃、「この日本一周が終わる頃には、自分が晴れ男か雨男かが明らかになる。」とこのブログに書いた記憶があります。雨ばっかりだった紀伊半島や北海道の旅もありましたし、九州や四国の時には、本当に天気に恵まれました… 結論としては、「これだけ長く旅すると、晴れ男も雨男もなくなり平均化する。」ということに落ち着かせることにします。

この日は、三陸のどこかで台風に正面衝突する最悪の天気予報でしたが、日程を決めている私は、正面衝突を覚悟して車をスタートさせます。(因みに、岩手県沿岸部に大きな被害を与えた台風は、この台風ではなく、次の台風でした。)何度となく来た三陸の地ではありますが、まだ見ぬ震災の遺構を中心に、ドライブしながら雨の中でも出来るだけの観光はする覚悟です。

野田村の隣村である普代村は、震災時に被害が少なかったことで一躍有名になった村。昔から、防災対策に力を入れ、この普代水門がたくさんの人を津波から救ったのです。
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普代村を救った元村長の座右の銘が記念碑として建立されています。
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黒崎~北山崎あたりは北部陸中海岸のハイライトなのですが、雨と霧のお陰で全く何も見えません。懐かしい北山崎に車を停めてはみたのですが、当然のように店は全て閉まっていて、雨とガス(霧)で景色は全く見えそうにはありません。
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個人的には一番好きだった鵜の巣断崖にも、行くのは早々と断念します。
この辺りにはコンビニもないので、飲み物を買いに三鉄の田野畑駅へ。かって見知った田野畑駅は、幸いにも震災被害が少なかったらしく、昔の面影を残しつつキットカットとのコラボで昔と違ってカラフルな外観になっています。
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駅の人からの情報によると、三鉄も今はまだ運行しているけど、台風が近づけばどうなるか… なのだそうです。プランでは30年以上振りにこの近くから遊覧船に乗るつもりだったのですが、遊覧船が運航する筈もなく、当然の如く先を急ぐことにします。

ナビには、この旅に備えて最新の道路データを入れていた筈なのですが、やはり三陸の道路は新しい道や無くなった道路も多く、今日からしばらくは、ナビを頼るドライブは難しそうです。早速、いきなり普通ならナビが絶対に案内しない筈の超狭い道路を案内され、激しい雨中のスリル満点のドライブに、大いに冷や汗をかかされます。

何とか田老に着きます。田老の駅は、大学1年生の東北旅行の時の記念すべき一泊目の駅(つまり駅での野宿)で、その際「この高さまで津波が到達!」というモニュメントを初めて見た地がここ田老だったので、個人的には「津波対策はできているんだろう」と思っていましたが、今回の津波は遥かにそれ以上だったようです。
震災遺構で保存が決まったという「たろう観光ホテル」。事前に申請すれば中まで入れるという震災遺構ですが、勿論私は予定通り外から眺めるだけにします。
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戻る道も工事中などで迷路のようになっているので、なかなか国道45号線に戻れずに、15分以上迷路の中を彷徨してしまいました。

三陸の中心地宮古。みどころは浄土が浜なのでとりあえず向かってみようとしたのですが、雨風が益々激しくなり、いよいよ暴風雨圏内に入った感じです。浄土が浜に行こうとして極楽浄土に行ってしまっても仕方がない(!?)ので、とりあえず近くの道の駅で雨宿りします。道の駅で台風情報を見ると、正にここ宮古でまもなく台風と正面衝突する感じなので、しばらく昼食を含めて嵐が過ぎ去るのを待つことにします。
本来なら、宮古では新鮮な海産物のランチを満喫する予定が叶わず、ごく普通のラーメンで腹を満たした直後にスマホの調子がおかしくなり、大いに慌てます。このままでは、台風が過ぎ去ってもすぐに旅を再開することができないので、この豪雨の中を車に戻り、スマホが使えないため何とかナビを駆使して宮古市内のドコモショップを見つけて、台風に向かっての決死のドライブです。
何とかたどり着いたドコモショップは、さすがにガラガラですぐにみて貰うことができ、30分後に無事に元に戻ったスマホが帰って来たのと時を同じくして、台風が少し遠ざかった感じになったので、ドライブを再開します。

三陸のドライブを再開し、次の目的地は大槌町旧庁舎。震災遺構として保存するとかしないとかの議論を見た記憶があったのですが、既に解体工事が始まっていて、間もなく見られなくなりそうな感じです。雨もやや小降りになったので、旧庁舎の周辺を散策して震災時の気持ちに少しだけ近づこうとします。時計の針が3時過ぎで止まっているのが、一層生々しさを感じさせてくれます。
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元々釜石では、明確な観光プランはありませんでした。世界遺産になった橋野鉄鉱山は、知人に言わせると「つまんないよ!」というところらしいのですが、世界遺産になったことに敬意を表して行きたかったのですが、釜石市内と言えども随分と遠い場所で、むしろ約1週間前に訪ねた遠野のすぐ近くなので、今から行くのはしんどそうです。釜石大観音にも、上にあがるのはエレベーターではなく階段のようだし、苦労して上に登ったところで、今日の天気では眺望も期待薄です。国道を走りながら遠くに大観音が見えたので、それで満足することにします。

今日の泊まりは大船渡。大船渡と言えば、国道沿いにある「ようこそ大船渡へ。新沼謙治のふるさと」と書かれた大モニュメントの印象が昔から超強い町です。「最近、新沼謙治見ないけど、あの看板、まだあるかな?」と思いながら運転していましたが、今でもちゃんとありました!でも、今の若者たち、新沼謙治って知っているのでしょうか?
ホテル名が「大船渡温泉」という名前で、宿泊費もかなり安いので、どんなホテルなのか大いに謎でしたが、知人曰く「震災後に建った新しいホテルで、評判もいいよ。」とのことでしたが、着いてみると、完全な「日帰り温泉」で、宿泊より地元の方のための健康ランドのようでした。少し早めのチェックインだったので、のんびりと温泉に浸かってリフレッシュすることにしました。

12日目:8月18日(木)

台風一過の翌日は、「風は強いけど好天!」というのが多いパターンなのですが、台風は抜けたもののこの日もザーザーと激しく雨が降っています。という事で、今日も雨中の観光を楽しむことにします。

大船渡の海岸と言えば碁石海岸。何度も見た穴通磯は津波で形が変わってしまったのではないかと心配していましたが、昔通りの荘厳な姿で我々を迎えてくれます。
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碁石海岸の中心地に車を停めて、海が見える場所まで少し歩きます。
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平成に入ってすぐの頃に、添乗員としてここのレストハウスに来て、お客様と歓談したことを何故か忽然と思い出しました。勿論、お客様の顔も名前もどんな話をしたかについても、全く思い出せないのですが、あそこの椅子にこっちを向いて座って、タバコをくゆらせている自分の姿だけが鮮やかに甦ったのです。
当時の私は、自分でも呆れるほどのヘビースモーカーでした。

新沼謙治の大船渡の隣は、千昌夫陸前高田。ヒット曲としては千昌夫の方が多いと思うのですが、大船渡のような個人名を出した大きな看板はないようです。私が見つけられないだけなのか、その後借金王となったイメージが悪いからなのかは不明ですが…
ここ陸前高田の観光としては、震災直後からずっと見たかった「奇跡の一本松」。
この辺り、津波が来る前は「高田松原」という松が群生した名勝地だったというのが、全く信じられないくらいに、本当に一本だけがポツンと残っているのです。
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これで岩手県陸中海岸沿いの観光を終えて、この旅最後の宮城県に入ります。台風と雨に祟られたため、十分な観光はできなかったのですが、何度となく来た場所でもあり、「もう一回おいで!」と言われたような気がしました。
勿論、また来ますよ!

実は微妙な県境線の関係で、明日もう一ヶ所だけ岩手県の見学スポットが残ってはいるのですが、次の宮城県の中でレポートさせていただくことにします。