麻痺からの脱却~日本二周目挑戦中!~

2010年に脳卒中で右半身麻痺に。でも、「絶対に諦めない」をモットーに現在は『日本2周目』に取り組んでいます。

オリンピックに、熱き心を!


いよいよ昨日からロンドンオリンピックが始まりました。

「別に、オリンピック… 見ないなぁ~」とはいつもながら思ってはいるものの、始まるとついついチャンネルを合わせてしまいます。
今回のオリンピック、開会式の前には男女のサッカーが揃って勝利、特に男子はW杯・ユーロと立て続けに世界最大級の大会を制していて今まさに「世界最強」のスペインに勝つという、まさにこれ以上ない好スタートを切り、競技が始まった昨日一日では、銀メダル2・銅メダル1というよいスタートダッシュが切れて、今回も大いに期待できる盛り上がり方です。
先日も書きましたが、4年間で唯一最大にナショナリズムが高まる瞬間で、日本人であることの喜びと感動と、そして時には悔しさもあじあわさせてくれる、貴重なひと時なのです。

今回のロンドンオリンピックは、私が生まれてから、記憶がない頃を含めてもう13回目の五輪になります。そんな訳で、今日は私のオリンピックの思い出を綴りたいと思います。

1、1960年 ローマオリンピック(0歳)
 生まれていたとはいえ、生まれたばかりの赤ん坊なので、覚えているはずがありません。
TVがなかった我が家でも、このオリンピックは父も母も見ていなかったようです。
後で、モハメッド・アリ(当時カシアス、クレイ)がこのオリンピックで金メダルを取ったということを知りましたが、活躍はそのくらいしか知りません。

2、1964年 東京(4歳)
 友達に「ドラえもん」がいれば、机の中から連れて行ってくれるのでしょうが、残念ながら4歳なので殆ど記憶がありません。唯一何となく覚えているのは、父親と沿道にマラソンを見に行ったらしいのですが、トップで走ってきた真っ黒い人を見て「パパ、どうしてあの人真っ黒なの?」と(その後に)作ったような会話をしたことを何となく覚えています。
そう、「裸足の英雄」アベベの独走を生で見ていたようなのです。当時、当然黒人なんて知らなかった私にとっては、アベベの褐色の体は強烈な印象だったのでしょう。でもその後少し遅れて走ってきた(であろう)円谷選手のことなどは、全く記憶にありません。
 「東洋の魔女」女子バレーが勝った時、「ニッポン、勝った!」と私も大喜びしていたと母に言われましたが、正直全く覚えてはいません。

20年ぐらい前、高杉良さんの小説「祖国へ、熱き心を―フレッド・和田勇物語」を読み、祖国日本のオリンピック招致に本当に努力された和田さんの存在を知りました。こんな人がいたから、日本でこんなに早く(戦争敗北から僅か20年で)オリンピックが開けたことを知りました。
2020年に向けて、「第二のフレッド和田さん」が出てこないと次の東京五輪は厳しいのかもしれませんね!? 個人的には、絶対に応援しています!!

3、1968年 メキシコ(8歳)
 物心ついて初めてじっくり見たオリンピックだと思います。鮮明な記憶に残っているのは、マラソンの君原選手の銀メダルです。それ以外に記憶に残っているのは、何と言っても「体操、ニッポン」。団体連覇と、種目別でもとにかく強かったことを覚えています。体操にも憧れましたが、当時まだ「逆上がり」すらできなかった私ですので、「月面宙返り」どころではありませんでした。
 あと、昨日めでたく「親子メダリスト」になった三宅さんというか三宅兄弟の兄弟の金・銅メダル獲得も強く印象に残っています。重量挙げにもちょっと憧れましたが、当時15キロぐらいのバーベル(近所のお兄ちゃんが持っていた)を挙げられずに、すっぱりと諦めました。
このオリンピックでメダルを取ったサッカーの件は… 残念ながら全く記憶にありません。

4、1972年 ミュンヘン(12歳)
 このオリンピックの思い出は、同年代の人には分って頂けると思いますが、強烈な印象は一つしかありません。そう、男子バレーボールです。
その理由は、オリンピックが始まる前の4月ぐらいから始まった実話をもとにしたアニメ「ミュンヘンへの道」。このアニメでは、毎回、レギュラー・補欠・監督・コーチなどを一人ずつ取り上げて、「ミュンヘンで金メダルを取るんだ!」という各々のモチベーションや挫折などのヒストリーを取り上げます。この番組を当時のクラス全員が見ていたので、全員が選手全員のことをある程度知り、全員が誰かしらに強く感情移入していたので、圧倒的なモチベーションで日本を応援していました。因みに私は、セッターの猫田さん、アタッカーでは森田さんや西本さん、嶋岡さんなどを特に応援していました。

「でも、そんなにうまく金メダル、取れるのかなぁ?」と正直心配していました。準決勝のブルガリア戦で開始から2セットを取られた時には、「やっぱり無理かぁ…」と、一度はほぼ諦めたのですが、ここで「ミュンヘンへの道」で「ここ一番で頼れるベテラン」と紹介されていたオリンピック3大会連続出場の南選手を投入、その南選手の大活躍で0-2から敗色濃厚のブルガリア戦に大逆転勝利し、その勢いをかって本当に金メダルまで行ってしまったのには本当に感動・感激しました。
当時、実力世界一と言われていたのはソ連。(ソ連… 久しぶりにこの言葉を使いましたが、懐かしいですね!?)日本はソ連を苦手としていて、ソ連には勝てるイメージがなかったのですが、順当にいけば決勝で当たるはずのソ連が準決勝でつまずいて、結局日本は苦手のソ連と一回も対戦せずに金メダルまで行けたわけです。
恐らく、ここまで一つのオリンピック競技に熱中して応援したのは、後にも先にもこの時の「松平ジャパン」ぐらい。空前絶後の思い入れ応援だったと思います。

勿論、それ以外の平泳ぎの田口さんやバタフライの青木さんの金メダルにも感動しましたが、バレーの圧倒的な存在感の前にちょっと感動が薄れてしまいました。
また、このオリンピックでは絶対に忘れて&繰り返してはいけない「ミュンヘンの悲劇」も起きていますが、正直小学生にはそんなに記憶もありません。

5、1976年 モントリオール(16歳)
 私は高校生になっていて、小学生時代のミュンヘン五輪のように純粋に見れなくなっていた影響もあるのでしょうが、ちょっと熱狂的応援からは距離を置いてシニカルに見ていたオリンピックだったような気がします。どちらかというと初めてのバイトに熱中していた年でもありました。
このオリンピックのハイライトは、4年前の男子に負けずと金メダルを取った女子バレーボール。圧倒的なスパイカー白井貴子さんの強烈な印象が強く印象に残っています。本当に強烈な「スーパーエース」でした。

それ以外、日本選手の活躍よりも印象に残っているのが体操女子のナディア・コマネチ。たけしのギャグになるような、いやそれ以上の(?)強烈な印象でした。
体操の「10.0」は確かコマネチが初めてだったような…
15年以上後、モデルになったコマネチと都内で会ったことがあります。私は、仕事で当時30過ぎのコマネチと会いましたが、正直その綺麗さ、美貌にびっくりしました。会ったらたけしのギャグをやろうとしていたことを思わず忘れてしまったほど綺麗でした。
ヨーロッパのスラブ系にはもともと美人が多いのですが… 直接見た美人度ではナンバーワンかもしれません。

6、1980年 モスクワ (20歳)
ご存知日本が不参加というより、アメリカなど世界中の半数近い国がボイコットした片肺オリンピック。勿論日本人が参加しなかったので、全く見た記憶はありません。
でも当時選手生命のピークだった人たちにとっては、このオリンピックボイコットは本当にくやしかったでしょうねぇ…
当時、選手生活のピークで「金メダル確実」と言われていた人は、柔道の山下さんやマラソンの瀬古さんなどの人たち… 
山下さんは4年後のロスで何とか金メダル取れたけど、それでもモスクワ当時のような圧倒的な強さはなく、失礼ながら「やっと勝てた」という感じで、「無敵の山下」の面影はありませんでした。
でも瀬古さんにとっては、幻のモスクワが本当に悔やまれるでしょう…
私も、男子マラソンの金メダルが早く見たいです!!

続きは別の機会に書こうと思います。

番外編としてオリンピックで少年時代にミュンヘンのバレー同様盛り上がったのが、1972年の「札幌オリンピック」。札幌でオリンピックをやるまでは、冬季五輪なんて存在そのものすら知りませんでした。
でも、笠谷・金野・青地の「日の丸飛行隊」でのメダル独占には本当に熱狂しました。
同時に上がる3本の旗が全部日章旗だなんて、恐らくもう一生見られないかもしれませんね。
その時初めて札幌や北海道のことを知り、「いつかは行ってみたい」と固く誓ったものです。

同時に強く印象に残っているのがテーマソング。「トワエモア」の歌う「虹と雪のバラード」です。実は最近まで、時折カラオケで歌っていました。
最後のフレーズ「君の名を呼ぶ オリンピックと~」というフレーズが大好きでした。
折角なので、この曲貼り付けさせていただきます。