麻痺からの脱却~日本二周目挑戦中!~

2010年に脳卒中で右半身麻痺に。でも、「絶対に諦めない」をモットーに現在は『日本2周目』に取り組んでいます。

電話のこと


金曜日の地震は久しぶりにびっくりしました。
あの3月11日と同じ金曜日の午後。今回は夕方でしたが、揺れる自席周辺のロッカーなどを抑えながら、「東日本大震災の再現?」とちょっと青くなったものです。
揺れが収まった後、早速ネットをチェックしたら、揺れが激しかったのは青森・岩手・宮城で、各地に津波警報… という速報をみて益々恐ろしくなりました。

でも、各地とも大したことがなかったようで本当に何よりでした。
金曜日の夜は20年以上前の仲間と久しぶりの忘年会&飲み会の予定で、メンバーの一人は仙台出張終了後に新幹線で飲み会に駆けつける予定でしたが、地震発生後早々に仙台の公衆電話から電話をいただき、「新幹線、止まっているから今日の参加は無理!」と欠席の連絡をいただきました。
私も本日の参加メンバーと連絡を取ろうと、何人かの携帯に電話をはじめたところでしたが、やっぱり携帯は全国的につながらず、仙台から公衆電話がこんなに早くつながったことには驚きでした。
妻は早速仙台の実家(家族)に無事確認の電話をしていたようなのですが、携帯に電話がつながったのはやはり数時間後だったようです。仙台から電話をくれた友人も、携帯がつながらないので機転を利かせて公衆電話に切り替えて電話をくれたものと思いますが、携帯やメールに頼らず公衆電話に切り替えたあたり流石に危機管理というかリスクマネジメントがちゃんとできているなぁ… と感心してしまいます。
「先輩、さすがです!」 本当に頭が下がります。

そう考えると、公衆電話というのはやはり万一の時には必要だと思いますが、本当に最近は公衆電話、少なくなりましたよね!? 今や公衆電話を見る機会は日増しに減っているような気がします。このまま公衆電話が減り続け、ゼロになってしまったらこのような災害時にはやっぱり困ってしまうのではないでしょうか?

また、最近自宅の固定電話も本当に少なくなりましたよね? まぁ、特に一人暮らしの人は携帯があれば固定電話は不要なので、最近の一人暮らしの人は殆どが携帯だけの生活なのだろうと思います。勿論、我が家の二人の子供もそれぞれ一人暮らしをしていますが、当然2人とも固定電話はなく、携帯だけの生活で本人たちも我々親も何ら不思議に思うことはありません。最近は夫婦二人の家庭でも固定電話は無く、携帯だけの家庭も少なくないそうです。

昔話になりますが、私が小学校低学年の頃にはまだ半分近くの家庭に電話は無く、近所の人や大家さんに呼び出してもらうことが少なくありませんでした。当時の電話番号簿の電話番号欄の半分近くは空欄か番号の後ろに(呼)がついていたのです。
私も小学校1・2年生の頃にはアパートに住んでおり、自宅電話は当然のようにありませんでした。当時から親戚との電話などには、同じアパートの自宅にある電話を使わせていただいており、私が小学校入学当時には、学校で配られる学級名簿(当時は個人情報云々などはなく、当然のように無条件に学校で作成され配布されたものです。)には近所の方の電話番号と(呼)の記号が名簿に記載されていました。思えば、隣の家の電話番号を名簿などに公表していた上に、電話の都度我が家を呼び出していただいてその方の家にお邪魔した上に電話をさせていただいていた訳ですから、ご近所付き合いは今と違って濃密にならざるを得ない訳です。(そういえば、調味料や玉子の「貸し借り」は当然のようにありました!)
当時の学校の連絡網で電話がかかってくると、用件を聞いた後に次の方に電話しなければいけないので、連絡を受けた後にその方の電話を借りて電話を掛けるわけですが、両親は終了後ちゃんとその家に毎回10円を払っていたと記憶しています。

当時、風呂上りに買う棒のアイスが5円だった頃ですから、電話代の10円は結構大きな出費でした。思えば次の電話の家も確か(呼)がついていた一般家庭ですから、お互い電話を人に借りていた人同士の電話連絡ですから、雑談などは一切なく、事務的な連絡事項の伝達だけで電話が終わっていたように記憶しています。記憶では市内電話は3分で10円。もし電話が3分を超えてしまったらアイスが4本買える20円を払わなければいけないので、倹約家の母も必死だったのでしょう。

そして確か小学校2年生の後半になって、ようやく我が家も電話を買うことが出来ました。当時ですから勿論ダイヤル式の黒電話ですが、小学2年生の私はとにかく人に自慢したくって、何かあれば自宅に届いた電話番号を連呼していたことを思い出します。
この電話番号は、おそらく一生忘れることはないでしょう。
当時親の目を盗んで、同じように電話をようやく買った友人の家に電話をかけまくったものです。電話代の10円が高額だったため、親に見つかっては互いに大目玉を食ったのが一番の想い出です。

電話で思い出すのは、高校~大学時代の想い出は女性の友人に電話した時です。大半は母親が出て、名前を確認して本人につないでくれるので事なきを得るのですが、(母親の場合は、後で本人には関係を聞かれるようですが、電話口で私が聞かれることはまずありませんでした)やっぱり怖いのは時に父親が出る時です。
「xx高校(大学)のxxと申しますが、○子さんいらっしゃいますか?」と恐る恐る切り出しますが、当時父親は「娘とはどのような付き合いですか?」のようなことを聞いてくる方が少なくありませんでした。
なので、女性への電話、特に初めてデートに誘う電話を掛ける時などは、本人が出る前にその父親という第一関門が最大の鬼門だったことを鮮明に思い出します。(気のせいか、特に初デートに誘う電話の時には父親率が高かったような気がします。)

自分に娘が生まれた頃、娘が成長した暁には自分が女の子への電話に苦労したことを思い出して、「娘が大きくなったら、絶対男からの娘への電話には『娘とどういうご関係ですか?』って訊いてやろう!」と楽しみにしていましたが、娘は中学生になった頃から携帯を持ってしまったので、自宅の固定電話に異性から電話がかかってくることは残念ながら一切ありませんでした。
それはそれで、ちょっとばかり淋しい気分でした。
因みに娘の学生時代のサークルの名簿を見ると、名簿には住所もなく連絡先は全員携帯番号と携帯のメアドでした。「時代は変わったなぁ~」と思いましたが、自分があれだけ苦労したことを考えると、ちょっと悔しいです!

会社に入った1983年頃には、世の中は電話が全盛の時代。「仕事も電話が無ければ始まらない」という時代で、今のような電話が鳴らない静かなオフィスと言うものはなく、業務開始の9時半になると同時に電話が鳴り始め、電話に出ることで一日がスタートする毎日でした。

1983年頃に当時最新だったのがFAX。今では信じられないと思いますが、自宅はおろかまだFAXがあるオフィスが非常に稀でした。
入社当時から海外旅行担当だった私ですが、海外旅行の場合1か月前にツアー参加者の名前を航空会社に報告するのですが、当時は英文タイプで参加者名簿を作り、速達で東京まで郵送していたのです。また、人数が少なくて急ぎの場合には、電話で口頭報告をしていたことも思い出です。(当時、ちょっとした間違いは笑って許される時代でした。)
会社(私の所属していた支店)がFAXを導入したのが確か私の入社翌年の84年だったと記憶しています。当時電話番号の隣にFAX番号がある名刺がとにかく羨ましかったのですが、遂に私もFAXがある名刺を持てる身分になって、名刺交換の時に鼻高々だったことを思い出します。
FAX番号のある人との会話では、「じゃぁ、その情報FAXで送ってくれる?」と言う会話ができて、お互いに満足したことを思い出します。
釣りバカ日誌」のハマちゃんではありませんが、FAXの原稿が何度送っても無くならない(=相手に届かない)と思い何度も送ったことは、当時としてはよくある(笑えない)間違いでした。

今やFAXは自宅にもあるのですが、データや書類はメールとその添付ファイルで送り、会社でも自宅でもFAXを使うことは殆どなくなりました。また、商談なども同時に複数の方と連絡が取れるメールが大半となり、気づけば1日に1回も電話をしない日もあるくらいです。
本当に、変われば変わってしまうものですね!?

実は今日、ブログで書くネタが思いつかず、なにも考えずに先週の地震ネタから始めてみましたが、何とか今週のノルマ分は書くことができました!