麻痺からの脱却~日本二周目挑戦中!~

2010年に脳卒中で右半身麻痺に。でも、「絶対に諦めない」をモットーに現在は『日本2周目』に取り組んでいます。

【宮城】~被災地への旅~


今日は5月27日(水)です。
5月10日~5月25日まで、16日間の「山陰・山陽大周遊」に行ってきました。16日間は、自分史上でも大学生だった22歳の時以来最長の旅行期間です。
この旅行記を、今までのペースで投稿していると、次の旅行までに書き終えるのは絶対に無理ですし、さすがに16日も旅行したので、早くも旅の最初の頃のことは忘れ始めています。
ということで、今後の旅行記は短めにしていこうと考えています。(と言いながら、書き出すとどうでもいいことをダラダラと書いてしまう自分がいるのですが…)
とは言え、「山陰・山陽大周遊」の前にGWに妻の実家の仙台に行き、念願の被災地めぐりをしたことを書きたいと思います。今日中に短めに投稿し、明日からは大旅行の報告に取り掛かりたいと思います。

仙台への出発はGW中の5月5日。この日であれば、4連休の3日目なので高速道路の「下り」の渋滞は避けられると考えた故なのですが、それでも前日(4日)の「渋滞30キロ」などの渋滞情報に接すると、やっぱり少しビビッてしまい、予定より早く8時前には東北道久喜ICに乗ります。さすがにこの日は渋滞はないものの結構交通量は多く、いつ渋滞になってもおかしくない雰囲気でしたが、幸いにしてそうになることはなく、この日の最初の目的地白石インターには11時過ぎには着いてしまいました。

この日の目的は、妻が宮城県南部の知人を数十年振りに訪ねることなのですが、約束の午後の時間にはまだまだ早かったため、訪問地近くの一度も行ったことがなかった「白石城」を訪ねてみることにしました。
白石城は、伊達藩の支城で片倉小十郎が城主であったことで(少なくとも宮城県に住んだことのある人にとっては)有名です。ただ、確か江戸幕府は大名の勢力が巨大化するのを恐れて、「一国一城制」を引いていたはずなのですが、理由は判りませんが、伊達藩には青葉城とこの白石城の2つのお城が何故か幕末まで存在していたようなのです。
白石市の中心街にあるお城の駐車場は満車。さして有名な観光地ではないと思われる(失礼!)のに、「さすがGW!」という混雑振りです。駐車場からお城までの道で、何と1年以上振りに派手に転倒してしまいました!
ようやくお城の前まで来ましたが、地元のイベントもありそれなりに賑わっています。宮城県南部の中心都市白石のシンボルにようやく来ることが出来ました。
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昼食は、宮城県が本社で東日本中心に店舗展開している回転寿司チェーン「平禄寿司」でいただきます。「平禄寿司」という名前でいつも思い出すのですが、回転寿司の元祖である「元禄寿司」、実は私この「元禄寿司」の発祥の地をずっと仙台だと信じていたのです! 昭和の時代に仙台で知遇を得た「元禄寿司の社長」は仙台の方で、この方があの「回転寿司」という世界中に普及したエジソン的発明をしたのだと信じこんしまっていたのです!
でも、その後「大阪で生まれた回転寿司のフランチャイズ店第一号店舗が仙台」だったということを知り、「社長」はフランチャイズ店の社長であることを知りました。自分的には「回転寿司」も「冷やし中華」と並ぶ「仙台生まれの画期的な製品」だと信じていたので、大いに落胆したのを覚えています。
そういえば、私が仙台にいた昭和の時代には、その仙台の元禄寿司が「廻るお好み焼き」や「廻る中華料理」の新店舗を派手に打ち出したことがありました。私も、物珍しさで行ったことがありますが、「廻る」というのは寿司以外には仙台人には受け入れられなかったようです。

翌5月6日、妻を実家に残してこの日本一周では初めての一人ドライブで、「被災地めぐり」をしました。この日は連休最終日なのでさすがに東北道の上り線は、朝から「一触即発」の雰囲気でしたが、私は東北道をさらに北へ向かいます。
被災地の前に、昭和の時代には毎週のように通ったいくつかの営業先への道を懐かしんでみようと、古川ICを降りて現在は市町村大合併で”登米市”になっている私の元営業エリアに向かおうとしましたが、あの当時はナビなんかなくてもちゃんと毎回迷わずに行けたのに、情けないことに殆どの道を忘れていました。
それでもあちこちで、「あっ、この場所覚えてる!」というデジャヴではない確かな記憶の断片を引き出すことが出来ました。
登米市エリアの最大の繁華街の佐沼。確かここに「スナック○× 専用駐車場」があり、当時はみんな車で来て大いに飲んでも運転して帰宅していたことを思い出しました!今では考えられないような時代だったのですね!?
中でも一番自分で思い入れがあった街は、当時の住所は「中田町石森」という街なので、当然訪ねてみます。驚いたことにこの街の出身者である「石ノ森章太郎ふるさと記念館」が出来ていて、少々驚きました。

昭和時代の思い出が詰まった内陸部の営業先を後にして、いよいよ被災地の沿岸地区に向かいます。このあたりでも何度か仕事をさせていただいたことがありますが、もう20年以上も前ですし、当時知り合った方がどうなったのかは悲しいかな知る術がありません。また、被災地のことを十分に下調べしてからの訪問地でもないので、とりあえず自分的に思い入れのある3つの街をドライブしてみることにしました。

最初に訪れた先は気仙沼。営業先として来たことはないのですが、仙台在住時代には何度か遊びに来たことがあります。主に港近くを車で走ってみましたが、ある程度復旧は進んでいるもののやっぱりまだまだ中心街なのに工事をしています。
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少しは売り上げに貢献しようと漁港のお店を覗きます。気仙沼は宮城と言いながら岩手の経済圏に入っているところもあるので、今度の山陰・山陽に持っていく土産として岩手銘菓の「かもめの玉子」を仕入れました。

その後国道45号線を海沿いに仙台に向かって南下して行きます。45号線はこのあたりがリアス式の複雑な地形なので、海に近づいたり遠ざかったりし、海抜も上がったり下がったりしていますが、あの時の津波の記憶を絶対に忘れないように、「津波浸水区間」が各エリアの標識にちゃんと表示されています。
「こんなに海から遠いのに、こんなに海抜高いのに、津波が来たんだ…」改めてその威力に呆然とします。
あちらこちらに、ようやくこれから工事に掛かれる…という感じの土地が見えます。人々の生活があった地域のはずで、言葉を失います。
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鉄道の分断されたエリアを見つけ、思わず道端に車を停めシャッターを切ってしまいました。震災からもう4年ですが、この調子だとあの線路に列車が来るのはいったいいつになるのでしょうか?
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次に訪れたのは南三陸町。南三陸という地名には馴染みがないのですが、旧町名の「志津川町」には営業でも何度となく行った思い入れのある場所です。まずは、復旧の象徴である「南三陸さんさん商店街」に行き、こちらも少しでも復旧に貢献しようとお土産をせっせと仕入れます。連休最終日なので、もう他県ナンバーの車はあまり見かけませんでしたが、地元の人々の車は結構たくさん来ていて賑わっているようです。これからも頑張って欲しいと祈りながらささやかながら売上に貢献しました。
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南三陸町の悲劇の中心的な施設であった防災庁舎は、私がどうしても見ておきたい一つでした。防災庁舎の前に佇み、あの日の惨劇を改めて思い出すと、涙が流れてくるのは仕方のないことなのでしょう。
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最後に訪れたのは女川町。仕事ではなく何度か駅前旅館に泊まり、駅前にあった私の苗字と同名の居酒屋に行って地酒を飲むのが個人的な女川の楽しみでした。
女川の駅前は… すでに新しい駅が出来上がっていて、あの頃の駅の面影も居酒屋も、影も形もありませんでした。
こちらにはちゃんと列車も来ています。おまけに駅には「日帰り温泉」の設備もあり、以前に比べてもずいぶん立派なものになっています。
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女川の高台に掲げられている横断幕に感動し、しばし見とれてしまいました。
「女川は流されたのではない。新しい女川に生まれ変わるんだ。」
地元の(当時)小学6年生の作だそうです。この横断幕を見ただけで、女川に来た価値がありました。

仙台から丸一日のドライブでしたが、もっと早く来なかった自分を責めながら、できればもう少しゆっくりと、次は宮城~岩手まで訪ねなければ… と気持ちを新たにしました。