麻痺からの脱却~日本二周目挑戦中!~

2010年に脳卒中で右半身麻痺に。でも、「絶対に諦めない」をモットーに現在は『日本2周目』に取り組んでいます。

倒れてから現在まで… その⑤ 救急病院での5日間

しばらく現状が続きましたが、久々に病状回顧録です。

茨城の救急病院には結局5日間滞在し、6月21日までいました。
当日、家族がきてしばらくしてからは、全然会話が通じない状況から少しづつ会話が成立する状況になりました。最初は私も「あれ、思ったように言葉が出ない!?」といささか慌てましたが、相手が特に妻子なので、まぁ何とか通じたということでしょうか。意味不明言語には妻も子供も一番焦っただろうと思いますが、家族曰く10分の1ぐらいの言葉は何とかすぐに判るようになったらしいので、最低限のコミュニケーションラインはとりあえずすぐに復旧しました。
車も貴重品もゴルフ場に置きっぱなしでしたが、家族3人で何とかゴルフ場のせーフティボックスを開けることができたようです。貴重品金庫の暗証番号は、結婚当初から25年間変えていないことが功を奏しました。車は、ペーパードライバーの息子が埼玉まで運転して帰ると言ったので発症直後で動けないながらとっても心配しましたが、流石に高速には乗らず下道で3時間近くかけて何とか無事故で帰れたようです。

このゴルフ場近くの救急病院には6月21日まで5日間滞在しました。ベッドは結局ICUのまま寝返りも一切打てず、結局隣に人がいるのかどうかは5日間遂に判らずじまいでした。
排泄器官(チ〇コ)にも肛門も別の管がつながれ、大小便は垂れ流し状況です。食事は最初の3日間ぐらいは点滴のみ、最後の2日間だけは流動食のような食事を口に入れることが出来たようです。
テレビはICUですから勿論ありません。結局眠り続けるしかすることがありません。倒れた翌17日には、ある人のパーティーに出席のアポがありましたが、当然ながら参加できず。「断らなきゃ」と思っていましたが携帯とメールはベッド脇でドンドン鳴るものの、電話もメールも出来ない(手が届かない)状況でした。結局滞在5日間ずっとICUのベッドで寝たままです。ドクターも看護士の方も、見る余裕は一切ありませんでした。
この病院に入院中、会社の人など茨城に縁のある方数名の方には早速お見舞いをいただきましたが、何とか判明する言葉をしゃべるのが精一杯でした。この病院にお見舞いいただいた方は「こりゃ、かなりやばいな…」と思われたことでしょう。因みに、ゴルフメンバーには当日夕方早速お見舞いいただきました。私も「来てくれた」ということはわかったものの、言葉を発することが出来ず、「すみません」の一言のコミュニケーションが出来ませんでした。

それでも何とか危機は脱したらしく、「もう動かしても大丈夫なので、家から近い救急病院に転院したら…」と言われ、5日後の21日にベッドに寝たまま介護タクシーに運ばれ、茨城の病院を後にしました。病院の風景はこの移動するときにベッドの中から見た景色が唯一見た病棟以外の景色でした。
とにかく、ひたすら眠り続けた5日間でした。